悩み多き人たちへ その悩み、もしかしたら仏教で解決するかもしれません

1憶総ストレス社会と言われています。
厚生労働省の調べでは、
日常生活の悩み・ストレスを感じているのは46.5%もいるそうです。
これは、労働人口(49.6%)とかぶっているようで、
ストレスを抱えながら働いている人が多いということかもしれません。

悩みが重なってくると
次第に生きている意味も見いだせなくなり
もしかしたら「何のために生きているのか」といった
根本的な悩みにまで行きついてしまうかもしれません。

ロシアの侵略戦争や、様々な凄惨な事件、
自然災害被害のニュースに比べれば、
遥かに自分の方が恵まれていると
頭では分かっているにもかかわらず、
なぜか幸せ、充実感を感じられず、
悩んでいる人も多いのではないかと感じます。

葬式仏教のイメージが強い日本では理解し辛いかもしれませんが、
その悩みは「仏教を学ぶ」ことで解決できる可能性があります。
仏教は、亡くなった方のためのものではなく、
生きている我々への貴重な教えです。

なぜ仏教を学べば、悩みが解決するのか?
その為には、まず最初に”仏教がどうして始まったのか?”を知れば、
その理由がわかります。

なぜならお釈迦様も、親鸞聖人も、我々と同じように悩み、苦しみ、
その解決の教えが仏教だからです。
宗教に対して怪しく感じられるかもしれませんが、
そういった問題に2500年前から真正面から向き合い、
少なくとも現代まで残っているということは、
それなりの価値、理由があると考えてもよいと思います。

ここでは、親鸞聖人を例に浄土真宗がどうして始まったのか
以下、3つの順に考えていきましょう。

  1. 親鸞聖人が生きた時代の時代背景
  2. 親鸞聖人にとって何が問題だったのか?
  3. 親鸞聖人が目指した道

1.親鸞聖人が生きた時代の時代背景

親鸞聖人が生まれたのは平安末期の1173年。
都は京都にあって、平家と源氏が激しく政権を争っていた時代です。
生まれる数年前には、保元の乱、平治の乱が起こっています。
保元の乱というのは、当時の関白の藤原家と天皇家が絡み合って起こった争いであり、
平治の乱というのは、保元の乱で勝った側の源頼朝と平清盛が、
今度は敵と味方になって起こった争いです。
また、天災地変も多かった時代で、飢饉により餓死された人は多数。
京都は餓死者であふれ、3分の1の方がなくなったといわれています。
そんな飢饉が数回あったという、すさまじい、まさに地獄のような現実の世界。
今日味方であったものが、明日は敵となる。
また自分たちではどうしようもない、大災害。
今日の、ロシア侵略戦争、中国の領空侵犯、
東日本大震災、異常気象による災害による被害など、
現代の我々とも通じる部分が多いと感じます。

2.親鸞聖人にとって何が問題だったのか?

そんな時代を生きた親鸞聖人にとって何が問題だったのでしょうか?
保元・平治の乱における、血を血で洗う人間のみにくさ、恐ろしさ。
明日には敵味方に分かれて争う人間のエゴ。
人間の努力では如何ともしがたい大自然による災害。
人生に対して、投げ出したくなるような悲惨な状況下で、
「人の世はなぜこうなのか?」
「人はこの世をいかに生きるべきなのか?」
「人間に生まれてきた意味はどこにあるのか?」
に対して、答えを求めようとされたのでした。
そして、よくよく考えれば、
この問題は、我々も同じように背負っている問題であり、
冒頭の「何のために生まれてきたのかわからない」に通じることに気が付きます。
だからこそ、親鸞聖人の教えが、800年という時を超えて、
今日も多くの人々の心をとらえて離さないのだと思います。

3.親鸞聖人が目指した道

では、親鸞聖人は何を目指されていたのでしょうか。
親鸞聖人の奥さん恵信尼さんが残された手紙に、
親鸞聖人は、師匠である法然聖人から
”「生死(しょうじ)出づべき道」をただ一筋にきかれた”と記載されています。
では「生死出づべき道」とは何でしょうか?

一般には、この世は死んだら終わり。人生一度っきり。
生と死は全く正反対のことであり、別物として切り離して考える。
生を肯定的に、死を否定的に捉えて、
・生きている人生を精一杯謳歌しよう!
・後悔しない様に死ぬ前に沢山得をしよう!
と考えられているかもしれません。

仏教では、”生死一如”といい、生と死は一体であると考えます。
平均寿命を聞いて、自分にはあと何年の命か、
と考えるかもしれませんが、
明日の生命が確実にあるかは誰も保証してくれません。
現実には、今、ここにしか、生命はありません。
言い換えれば、「この生命は常に死と向かい合っている」ということです。

「なぜ亡くなったのか」と問われると
「ガンです」「事故です」と
考えるのが一般的ですが、
仏教では「生まれたから」と考えます。
死と共にある生なのです。

生も苦であり、死も苦である。
その生と死の苦を超越する道が「生死出づべき道」となります。
すなわち、仏の悟りを開くこと。
特に、死ぬことを浄土に往き生まれさせていただく(往生)ととらえて、
生きることもありがたい、
死ぬこともありがたい、
生も、死も、どちらも肯定的に捉えて、どちらも全うすることを目指す。

この問題は、あらゆる人々に共通する問題であり、
この問題に対する教えは、誰もが知っておくべき教えでもあると感じます。

まとめ

1億総ストレス社会と言われる日本。
物質的に恵まれ、平和な現代日本においても
「何のために生まれてきたのかわからない」という問題について
多くの人が悩んでいる様に感じます。
その悩みは「仏教を学ぶ」ことで解決できる可能性があり、
ここでは、まず最初に”仏教がどうして始まったのか?”について

1.親鸞聖人が生きた時代の時代背景
  現代の我々に近い状況、もしくはそれ以上に生きるのが苦しい時代だった
2.親鸞聖人にとって何が問題だったのか?
  生きるのが苦しい時代において、なお
 「人間に生まれてきた意味はどこにあるのか?」を問題とされていた
3.親鸞聖人が目指した道
  生と死を肯定的に捉えて、生と死を全うする道

を学びました。

日本では、葬式仏教のイメージが強いかもしれませんが、
仏教は生きている我々に対する教えです。
お釈迦様も、親鸞聖人も、我々と同じように悩み、苦しみ、
「人間に生まれてきた意味はどこにあるのか?」という
人間誰しもにとっての共通の問題に対して、
その解決に導いてくれる教えが仏教です。

宗教に対して抵抗を感じられる方もいらっしゃるかもしれません。
その気持ちはとても分かります。
私も最初は変な勧誘をされるのではないかと、とても怖かったです。
が、人間誰しもが背負っている問題に
2500年前から真正面から向き合い、
少なくとも現代まで残っているということは、
それなりの価値、理由があると考えてもよいと思います。

もし仏教にご興味を持たれた方がいらっしゃれば
私、慈雲は、西念寺という名古屋のお寺で
勉強させていただいているので
是非一緒に仏教を学びましょう。
また仏教に関係なく、
お寺では「喫茶えにち」という出会いの場も併設されています。
来たら、変な勧誘をされるということはありませんのでご安心を!
お気軽に、お立ちより、お声かけください。

南無阿弥陀仏

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