他人の出世や成功が羨ましい人へ 一緒に喜んでしまいましょう!
他人の出世や成功が羨ましく、
自分自身がみじめに感じてしまうことがあるかもしれません
自分とやっていることはさほど変わらないのに、なぜあの人だけが出世するのか
同世代の人が沢山活躍していたり、お金を沢山稼いでいると、自分自身がみじめになる
そんな経験をされた方は多いのではないでしょうか
私も同じです
とてもつらいですよね
ただ、ちょっと待ってください
よくよく考えると、その人の成功は、自分にとって何ら不利益はありません
他人が宝くじに当たったからといって、
自分自身が何か損をしているわけではありません
ここでは「隋喜善」を知ることによって、
他人を羨ましく思うネガティブな心を転じて、
その人の成功を自分自身が幸せになるきっかけとすることができるかもしれません
その為にはまず、、
その人の成功をまるで自分事の様に一緒になって思いっきり喜びましょう!
それが「随喜善」です
自分が逆の立場で考えても、
友人が一緒になって心から喜んでくれたらとてもうれしいことは想像できます
そして形だけだと、、多分バレます
では、なぜ「随喜善」が良いのか
仏教ではどう考えるかを一緒に考えていきましょう
随喜善とは
仏教では、他人の善を一緒になって喜ぶことを「随喜善」と言います
隋喜善は、自己の善い行いよりも功徳になるといわれています
他人の善を一緒になって喜ぶ
自分自身が頑張ってよい行いをするわけではないので
簡単に思われるかもしれません
でも実は、とてもむつかしいです
簡単なことではありません
なぜ、自己の善い行いよりも功徳になるのか
なぜ自己の善い行いよりも功徳になるのでしょうか
それは、自分が善い行いをすると
「自分は善いことをした」という自己満足を得ることができるため
どちらかというと行いやすい側面があります
ある意味、まだ自分中心のものの見方から離れてはいません
一方で、随喜善は、自分中心のものの見方をしてはできません
誰しも、自分が一番かわいくて、一番大切にしたいのですが
ただ、自分を常に一番に据えていると、
他人の成功を心から一緒に喜ぶことができないのです
どうしても、我執(自己への執着)や妬み心がでてしまい、
そういう心では、随喜善は到底できません
自己の善い行いは本当に善い行い?
また、自己の善い行いは本当に善い行いなのか?という問いがあります
例えば、自然災害に対する義援金や、ボランティアに参加したとします
不幸に見舞われた人たちに憐れみを感じて、
そのお役に立つための行動は本当に素晴らしいし、
貴ばれるべき行為だと思います
一方で、
「自分は、あのとき、あれだけのことを、あの人達に施した」
という心は全くないと言い切れるでしょうか?
もしくは、その施しは、
自分の生活に支障がない程度の範囲で、
自分は安全地帯にいて、傷つかない程度のものであり、
不幸に見舞われた人たちに対して
精一杯の施しと言えるのでしょうか?
その様に考えると、
自分の行いは本当に善い行いだったのか?
少し疑念がわいてきます
究極を言えば、
本当の意味での善い行いを我々はできるのか?
となってしまうかもしれません
もちろん、だから自己の善い行いをやめてしまえ、
ということではなく、
その行為自体は本当に素晴らしいものですが
一方で、
『情けは人のためならず』
自己の善い行いは、言い換えると
自分のための善い行いなのかもしれません
そういうことを自覚しておくことが大切だと感じます
まとめ
同世代の人が沢山活躍していたり、お金を沢山稼いでいると、
自分自身がみじめになる
一方で、よくよく考えると、その人の成功は、
自分にとって何ら不利益はなく、
自分自身が何か損をしているわけではない
ここでは、自己の善い行いよりも功徳になるといわれている
「隋喜善」を知ることによって、
他人を羨ましく思うネガティブな心を転じて、
その人の成功を自分自身が幸せになるきっかけとする方法を学びました
大変むつかしいですが、
まずは形だけでも、少々気持ちが入っていなくても、
共に、
その人の成功をまるで自分事の様に一緒になって思いっきり喜びましょう!
南無阿弥陀仏