『働く』意味がわからない

「自分は何のために働くのか?」
まだ働いた事がない人にとっては、
長時間労働、ブラック企業、パワハラ、セクハラ、終身雇用の終焉、、などなど
憂鬱な言葉が並び、とても不安な気持ちになるかもしれません。
もし、実家暮らしの方であれば、
生活費もそんなにかからないし、
親が養ってくれるのであれば、
わざわざそんな苦労をしてまで
働く意味が見いだせないのは
当然かもしれません。

また、すでに働いている人においても
朝早くから夜遅くまで働き詰めで、体が不調になったり、
ストレスの多い職場、仕事で、精神的に参ってしまうと、
「一体自分は何のために働いているのか?」
「体を壊すために働いているのか?」
「自分は、苦しむために働いているのか?」
といった疑問を持つもの当然かもしれません。

元々は、自分が自ら選んだ仕事であるはずなのに、
働くことが喜ばしいことであるはずなのに、
もはや、働く意味を見いだせなくなってしまう。
もしかしたら、
「自分の忍耐力が足りないのか?」
「自分の考え方や、やり方が間違っているのか?」
といった悩みを持っている方もいらっしゃるかもしれません。

”働くこと”の目的

一体、我々は何のために働くのでしょうか?
まず第一は『生活のため』、『生きていくため』。

この目的は、明確です。
生活するために、最低限のお金が要る。
その為に働く。
自分自身が生きていくために、子供や家族を養うため、働く。
『働かざる者食うべからず』
大変わかりやすい目的です。
生活に必要最低限のお金を、どんな仕事でもよいから、
とにかく稼ぐ。
それ以上のお金は不要。

ここで、生活のため、生きていくため、と言いながら
自分の欲を満たすための贅沢であったり、
自分の稼ぎの身の丈不相応の生活を目指してしまうと、
難しくなってしまいますが、
生きていく最低限のお金であれば、
今の日本であれば、特殊な事情を除けば、
それほどむつかしいことではないかもしれません。

この理由では、
親が養ってくれる冒頭の例であれば、
働く理由にはなりません。
では、ニートのような生活をすればよいのか?
そこには、少し疑問が残ります。
『働く』ということには、
生活のため、生きていくため、以外にも、
何か別の理由もあるのではないか?

では、仏教ではどう考えるのでしょうか?

こよなき幸せ

スッタニパータというお経の「こよなき幸せ」という節があります。
いわゆるブッダの幸福論です。
その中に以下のようなブッダの言葉があり、
私は心に止めるようにしています。

適当な場所に住み、あらかじめ功徳を積んでいて、
みずからは正しい誓願(※)を起こしていること、
ーこれがこよなき幸せである。

ブッダのことば スッタニパータ 中村元訳 P58 260

(※)誓願=必ず成し遂げようと定めた誓い
自分が自ら必ず成し遂げたいという目標をもって、
それが成功するかどうかは一旦おいておいて、
そこに向かって粉骨砕身、邁進する。
もし、それができれば、とても充実した、幸せを感じられそうです。

また仏教ではありませんが、
坂本龍馬の有名な言葉があります。
私はこの言葉が大好きでした。

世の人は我を何とも言わば言え 我なす事は我のみぞ知る

坂本龍馬

もし、自分自身に誓願を立てることができれば、
そこに対する様々な困難に対しても、
また批判的な言葉に対しても、
自分を信じて進んでいくことができるかもしれません。
なぜなら、自分自身が成し遂げたいことであるから。

ただ、ここで注意しないといけないのは、
誓願は、すぐに立てられない。ということです。
我々は、自分のことは自分自身が
一番わかったような気になってしまいますが、
案外わからないものです。
例えば、小学校の時に大好きだった人が
今も大好きです。という人はいないと思います。

何事も、経験してみないと、わからない。
志高く、世のため、人のため、と意気込んで、
「世界平和を実現したい!」と言ってみても、
言葉や、気持ちが上滑りしてしまうかもしれません。

恰好をつける必要もないので、
本当に自分が実現したいことは何なのか?
これをトライ&エラーを通じて、
自問自答し続けて本当の誓願を立てて、
それを実行する。
もしかしたら、子育てかもしれませんし、
家族のための家事かもしれません。
それは自分自身が決めることであり、
他人がどうこう言う話ではありません。

私は、それが「働く」ということではないか、
と感じています。

働く=誓願立て実行すること

昔は当たり前であった、
「働くこと」に意味を見出すことがむつかしい時代になっているように感じます。

昔は、社会全体が貧しく、
まさに生きていくために
がむしゃらに働く必要があった。
今は生きていくためだけであれば、
それほどがむしゃらに働く必要がありません。

では、親が養ってくれるから、
生きていくのにはこまわらないから、
働くことを放棄します。
この生き方を否定することは全くできませんが、
それで幸せを感じられるか、というと
おそらくむつかしいのではないか、
と思います。

そこで、『働く』ということを
会社に勤めてお金をもらう、
アルバイトやパートでお金をもらう、ということに限定せず、
みずからが誓願を立てて実行すること、
と再定義して、
まずは小さな誓願を立てて、
それを小さく実行するところから
始めればよいのではないかと考えます。

私自身、小さな誓願を立てながら、
自問自答しながら、
壁にぶつかり、ジグザグしながら、進んでいます。
自分自身がこよなき幸せを得られるように、
共に歩みましょう!

南無阿弥陀仏

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