「自分は正しい」という思い込み

仕事や、生活において、
自分がコツコツ一生懸命進めてきたコトに対して、
軽々しく意見をされると、
「そんなコトわかってるよ!」
「何もわかってないくせに!」
「じゃぁ、どうすればいいんだよ!」
とカチンときたりするかもしれません。

また、一生懸命になればなるほど、
自分が誰よりも詳しいという自信もあり、
思い入れが強くなり、
ますます、素直に他人の意見が聞けなくなってしまいがちです。
心情的にはとても理解できますが、
そこには危険がはらんでいるかもしれません。

一生懸命になればなるほど危険

自分自身、若いころは特に、
とにかく一生懸命仕事をしていました。
早く一人前になりたい。
どうにか、世のため、人のために、役に立ちたい。

そして一生懸命にやるほど、
一緒にやっているメンバとの距離感を感じていました。
まるで一生懸命やっていないように見えたり、
ミスがすごく気になったり。
それをどうにか埋めようと
さらに一生懸命に働き、
それがさらに溝を深めていったようにも思います。
当時は、メンバの悪いところばかりが
目に入っていたように感じます。

では、仏教ではどう教えられているのでしょうか?

悪人こそが救われる「悪人正機」

善人なほもつて往生をとぐ。いわんや悪人をや。

(善人でさえ浄土に往生することができるのです。

 まして悪人が往生できるのはいうまでもありません。)

歎異抄 親鸞聖人

普通に聞くと、
「えっ、逆じゃないの?」
「善人が救われるのが当然で、悪人は救われるかは怪しいなぁ」
と考えるのが一般的なのかもしれません。

では、善人って誰でしょう?
「あなたは善人ですか?」と面と向かって問われると
「自分で善人と断言するのは少し気が引けるけど、
 まぁ、悪人ではないかな」
といった感じかもしれません。

では、「私は善人です。」
と言い切っている人がいたらどうでしょう?
ここでは、善人を”自分は正しい”
と読み替えてもよいと思います。
自分は正しい、と信じている人は、
ちょっと厄介ではないでしょうか?
この人は、自分が正しいと信じているので、
聞いてもいない、いろいろなアドバイスをくれるコトでしょう。
また、こちらの意見に対しては、聞く耳は持たないでしょう。
更に、自分は正しいと思い込んでいるので、
どんな行為をしてもリミッターが効きません。
正しい行為は、とても危険な暴力性を持っています。
ちょっとした過ちに対するSNSでの炎上も、
同じメカニズムだと思います。
行き過ぎた正義は、もはや正義ではなくなっている可能性があります。

まとめ

善人なほもつて往生をとぐ。いわんや悪人をや。
この親鸞聖人のお言葉は、
我々に、善人=自分が正しいと思っている人の危うさを
示唆している様に感じます。
悪人の自覚。
極論すれば、我々は善人ではない
絶対的に正しいわけではない
間違っている可能性は十分にある。いや、間違っている。

悪人の自覚があるからこそ、
他人の意見も素直に聞けて、
他人に上手に頼ることができる。
一生懸命に、思い入れを込めている時こそ、
「あっ、今自分は善人になってないかな?」と気が付いて、
悪人の自覚をもってコトにあたることが肝要かもしれません。

南無阿弥陀仏

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