幸せになりたい人
昔、読んでいたアルボムッレ・スマナサーラ(日本テーラワーダ仏教協会長老)の書籍で
印象深いものがありました。
そこでは、
セミナーなど、人が集まっているところで、
「幸せになりたい人手を挙げてください」
というと全員が手を上げます。
「では、どうすれば幸せになれるかわかっている人は手を挙げてください」
というと誰も手が上がらない、
といったお話が紹介されていました。
私には、この話がとても印象的でした。
「ホントだ、、自分も同じだ。」と。
このお話は、自分が仏教に興味を持つようになったきっかけの一つです。
幸せになりたいのに
幸せの成り方がわからない
これはとても大きな矛盾であり、問題です。
まるで行き先がわからないのに、飛んでいる飛行機のようなものです。
我々は、心から幸せになることを望んでいる、
生きる目的は、幸せになるため、と言ってもいいかもしれません。
だけどほとんどの人は、その明確な方法を知らないし、
そんなことを、これまで学校では習った覚えもない。
この本を読んでから、私はずっとこのことを考えています。
幸せの定義
幸せの定義はいろいろとあると思います。
また世の中には、たくさんの情報が溢れています。
家族と大切な時間を過ごす、
もしくは家族の幸せが自分の幸せであったり、
安らかな自分の趣味の時間であったり、
社会的な成功が自分の幸せだったり、
もしくはお金を沢山稼ぐことかもしれません。
まず私が思ったのは、
社会人である限り、仕事は切っても切り離せない。
時間の使い方は、命の使い方。
であれば、
生きている時間(=命)の大半を占める仕事を中心に据えて、
仕事と自分の人生を極力シンクロさせて、
仕事=自分のなすべきこと(誓願)として、
精一杯仕事をして成果を出し、世の中に貢献する。
そして、自分の人生を生き切る。
これが自分にとっての『幸せ』と定義して、
ずっとやってきました。
これはある程度うまくいったと思います。
仕事上の困難が起こっても、
ポジティブに捉えなおして、
仕事の成果もある程度出ていたと思います。
ただこのやり方には致命的な欠点があります。
それは、決定的に仕事が行き詰ったときに、
同じく人生にも行き詰ってしまう、という点です。
勿論、そんなことは起こらないかもしれません。
ただ、起こる可能性もあります。
仕事上のトラブルについて、
ある程度の困難であれば、
自分自身が粉骨砕身に取り組めば、
仲間にも共感を得られ、周囲の協力が得られ、
乗り越えられると思います。
成功するまで頑張ればいいだけだ、
と思われる方もいらっしゃるかもしれません。
が、決定的に超えられないケース、
どうあがいても行き詰ってしまうケースも起こりえます。
私はそういうケースにはまってしまいました。
自分自身の人生と、取り組んでいる仕事を
完全にシンクロさせてしまっていたため、
仕事がうまくいかない=自分自身の人生がうまくいかない
仕事=人生ととらえていたため、
完全に調子を崩してしまいました。
非常に苦しい、死んでしまいたいほどつらい時間でした。
自分の生きている意味を完全に見失ってしまいました。
ただ、一方で自分の生き方を見直す、良い機会にもなりました。
では、仏教ではどう教えられているのでしょう?
世間虚仮 唯物是真(せけんこけ ゆいぶつぜしん)
世間は虚仮なり。唯仏のみ是れ真なり。
聖徳太子の言葉だとされています。
「人間世界は、からっぽで中身はない。
ただ仏だけが真実である。」
これを、普通の常識に照らすと、かなり違和感を感じられると思います。
「えっ、逆じゃないの?
人間世界の現実は真実でしょ?
仏様は想像上のもので虚仮でしょ?」
これが一般常識だと思います。
では聖徳太子は、現実を軽視した人なのでしょうか?
いえ、違います。
聖徳太子は、
一流の政治家であり、
一流の仏教学者であり、
隋を相手にした一流の外交家であり、
建築の世界でも、美術の世界でも、数々の業績を残されています。
そんな現実家の聖徳太子のご持言(日頃口癖のようにいっていた)が、
「世間虚仮 唯仏是真」
この意味を今一度考えてみてもよいかもしれません。
自分の信じているものは正しいのか?
私の場合、仕事の成果が『幸せ』だと信じていました。
が、調子を崩したことで、そこに自分の本当の幸せはない。
ということを、自分の身を通じて深く経験してしまいました。
もちろん、仕事を精一杯やって、成果を出すことは大切なことです。
また昔の私と同じように、仕事の成果を『幸せ』と信じることも
全く否定できません。
ただ、私の中ではその価値がひっくり返ってしまいました。
現実の世界で大切だと思われているものは、
実際は儚いものではないか?
その価値は移ろいゆくものではないか?
仮想通貨が流行ったり、円高になったり、円安になったり、
平和になったり、戦争になったり。
まさに「世間虚仮」。
私の場合は、
もしかしたら、仕事の成果ではなく、
仏教の中に本当の幸せがあるのではないか。
という問いが心の中に起こりました。
もともと、仏教は人々が『幸せ』になるための教えです。
そしてそれが2500年間も受け継がれてきています。
この教えは、私を幸せにするために、
受け継がれてきたものではないか。
私が幸せになるには、もうこの道しかないのではないか。
そう考えると、
これまで当たり前に触れていた仏教が、
とてもありがたく感じられてきて、
また改めて仏道をしっかりと歩んでいきたいと
感じるようになっています。
まだ道半ばではありますが、
心新たに、日々精進していきます。
南無阿弥陀仏